世の中には、不運や理不尽を糧にして自らの能力を磨き、成長する猛者がいる。就職氷河期から「失われた30年」という厳しい時代を乗り越え、現代でも活躍する人々がその典型だ。
こうした猛者たちを分析すると、ある意味で「無責任かつ正義感に囚われない人物像」が浮かび上がる。彼らは「正しい」「間違っている」といった価値判断に縛られず、目の前の問題を解決するために全力を注ぐ人間だ。
彼らは『どれだけ入念に予防策を講じても、どうしようもない不運や理不尽が次々と襲ってくるのが世の常である』ことを前提としている。
非の打ち所がないプロジェクトに難癖をつける人間、忙しい最中に理不尽な上司から急ぎの仕事を押し付けられる状況も珍しくない。
道徳的には、これらの不運の責任は自分にはない。
災厄を引き起こした者にこそ責任があり、難癖をつける者は自らの能力不足を理解すべきだし、仕事を押し付ける上司は、道徳的な正しさを身につけるべきである。だが、猛者たちには、そんな些細なことは関係ない。
犯罪に巻き込まれた場合も同じだ。道徳的に悪いのは加害者であり、被害者に罪はない。しかし、自分が正しくても問題は解決されず、状況は刻一刻と悪化する。
優秀な人間ほど、自分の正しさを証明しようと奔走し、その結果、状況がさらに悪化してしまうのである。
理不尽な上司から「それをどうにかするのがお前の仕事だろ!」と追い打ちをかけられ、恐ろしいストレスを浴び続けた結果、廃人同然になり、いつの間にか会社での居場所を失うことさえある。
一方、しぶとく生き残る猛者たちは、「誰もが正しいことをすべきだ」という社会正義と、「それを現実にどう実現するか」という現実の狭間で折り合いをつけている。
彼らは、世の中で正しいことを実現するためには、人間は誰もが「必ずしも正しい行動を取らない」という前提で動く。
性善説的に「誰もが正しいことをするはずだ」と考える優秀な人間は、想定外の不運や理不尽に直面したとき、「悪いのは自分ではない」と証明しようと奔走する。
しかし、生き残った猛者は誰が悪いかなど気にせず、ただ目の前の仕事を終わらせることに集中する。
つまり、強く逞しい人間は、社会正義を信じて行動するわけではない。世の中を不運や理不尽、人間の欲望と感情にまみれた魑魅魍魎の世界と捉え、遭遇する問題に淡々と対処するのだ。
我々が猛者たちから学ぶべきは、不運や理不尽に遭遇したとき、その道徳的正しさを証明しようとして、エネルギーを浪費すべきではないということだ。
代わりに、目の前の問題をいかに解決するかという現実的な視点に立ち、ひたすら行動することが重要である。
誰が悪いか、なぜこんな目に遭うのかを考えることは、我々の成長を妨げるだけだ。
不運や理不尽は、自らの能力を磨く絶好の機会と捉え、淡々と対処するべきなのである。
(了)
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