秋の気配を感じる涼しい帰り道。
自分の影が長くなる。仕事帰りに寄った缶チューハイが入ったコンビニ袋をぶら下げながら歩いているだけなのに、人は突然、人生について考え始める。
老いとか、孤独とか、失ったものとか…。
切ない。すごく切ない…でも、そんな気持ちを持つことも人生では必要なんだと思う。
なんて考えながら歩いていたら、前を歩く女性のスカートが風でめくれた。
見えたか、見えてないかは定かではない。というか、見えてない。残念ながら太ももの半分くらいまでしか見えなかった。
でも、その瞬間、それまで頭の中にあった不安とか、葛藤とか、そう言ったものが霧散した。
少しだけ、やる気が出た。頑張ろうという気になれた。
半世紀近く生きてきて「パンチラ」ごときに人生を救われる時点で、かなり終わっている気もしたが、それはそれ。嬉しいんだから仕方がない。
なぜ「パンチラ」は美しいのか。
ここで、一つ真面目な話をしたい。なぜ、スカートがめくれるだけなのに、僕は救われるのか。
なんていうと、何をバカなことを…と思うかもしれない。でも、哲学とは些細なことにも「なぜ」を問い続けることらしい。
小難しい話は知らないけど、僕は、夕方の風が揺らすスカートの…あの刹那な瞬間に、世界の摂理を見た。見た気がした。
多分、あれはエロではない。いや、エロなんだけど、エロだけでは説明できない。
なんか、すごくパンチラが美しく感じた。
人間は「欠如」に欲情する
全てを与えられるより、中途半端な情報を与えられるほうが興奮すると僕は思う。
見えてないからこそ、全体を妄想で仕上げる。それも、実物以上に美しく。例えば、パンツの色、お尻の形…僕の妄想で、いくらでも美しくすることができる。
現実より、妄想のほうが高画質なのである。
「パンチラ」の本質はここにある。見えたのか。見えていないのか。おそらく見えていない。
でも、その余白というか、足りないものがあるから、勝手に想像して興奮するんだと思う。
「侘び寂び」とパンチラの美学
この「欠けているからこそ美しい」「見えないからこそ価値がある」という感覚は、日本の「侘び寂び」の精神にも通じる、極めて高度な美意識なのではないだろうか。
それは「不完全・無常・未完」の中に美を見出すこと。苔むした石庭に心を動かされたり、桜は散るから美しいと感じたり、なんというか完璧で永遠じゃないものに魅力を感じることだと思う。
僕が思うに、パンチラは、不完全で、無常で、未完である。
つまりパンチラは、かなり侘び寂びなのである。
もし、仮に…千利休みたいな人が、現代に転生したら、パンチラの瞬間、静かに目を閉じ、「これぞ、余白の美よ」とつぶやいたはずだ。
禁忌と侵犯
なんか、息苦しいけど、社会の秩序を守るためのルールや法律、しきたりは必要なんだと思う。
そして、現代に生きる僕たちは、がんじがらめの社会で管理されている。だから、たまには、足枷を外して、タブーを犯したい。少なくとも僕はそう思う。
「パンチラ」を目撃した瞬間の、あの微妙な背徳感——「見てはいけないものを見てしまった」という感覚——それは、常識から少しだけ、しかし確実に踏み越えた瞬間である。
その少しが、人を生かす。
「僕は、まだ完全には終わってない」みたいな感覚が、あの一瞬にはある。
永遠ではないから美しい
風が吹く。スカートが舞う。世界が止まる。
そして——その一瞬は、二度と戻らない。
永遠に咲き続ける桜を、誰も美しいとは思わない。散るから美しい。パンチラも同じだ。スカートはすぐに戻る。だから、あの一瞬は永遠に輝く。
パンチラとは、生の衝動そのもの
半世紀近く生きても、パンチラに救われることがある。
ぶっちゃけた話、ここまで生きていれば、その先…もっと直接的な…もっと刺激的なことも経験してきた。なのに、あの背徳感が僕を救う。
老いとは何か。それは、世界に感動する回路が、一つずつ閉じていくことだ。仕事も、酒も、夕陽も、だんだん「慣れ」になる。心が凪いでいく。鈍くなっていく。
それでも——風が吹いた瞬間、世界が止まった。なんか、生きてるって感じがした。
「よし、明日も頑張ろう」と思った。
情けない話だけど、風で少し元気になった。
でも、まあ、それで明日を生きられるなら、悪くない気もする。



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