急激な技術の進歩。一見、僕たちの生活を豊かにしたかのように見える。しかし、昭和50年生まれの僕らが思春期に夢見た21世紀は、こんな現実ではありませんでした。
あの頃、男子たちは紙の媒体――通称「エロ本」に頼り、ページをめくるたびにざらつく紙の感触に指先を痺れさせ、インクの匂いが鼻をくすぐるだけで心臓が跳ねたものです。レンタルビデオショップの奥、薄暗く埃っぽい棚の前で、ビデオテープを手に取る手は微かに震え、心臓は耳の奥まで響くほど高鳴った。カーテンの向こうの小さな暗がりが、秘密の冒険の入り口に見えたあの感覚――あれこそが、僕たちの青春の熱でした。
そして現代。スマホ一つで動画は手軽に見られ、VRで仮想世界に没入できる。だけど、それは、本来望んでいた技術の進歩とは全然違います。もっと未来的な快楽が得られる・・・こんな世知辛い世の中になっているとは想像すらできませんでした。
昭和の僕らが夢見た21世紀は、空飛ぶ車や透明のパイプを走る自動運転車、宇宙旅行――人生は自由で、人間はもっと人間らしく、悩みや不便もなく、仕事もそこそこに、堕落を楽しむ世界でした。しかし現実は、汗ばんだ手で握る吊革、ギュウギュウ詰めの車内の人々の視線、重苦しい上司の怒声の連続です。自由は遠く、心は窒息しそうです。
技術は、人間の生活をラクにするためにあるはずでした。けれど、技術の進歩はあまりに速く、人間の進化は追いつけません。便利さは増したのに、楽しむ時間は奪われ、心の余裕は失われました。スマホや最新ガジェットも、使いこなせなければただの重く光る箱。通知音が鳴るたびに胸の奥に焦燥感が広がり、知らず知らず指先に力が入ります。便利なはずのツールが、逆に疲労感を増幅させています。
さらに、過去に固執する老害たちが、新しい技術の浸透を妨げます。「昔のやり方で十分だ」と胸を張る彼らの横顔を見ながら、僕らはため息をつき、冷たいコーヒーの香りに慰めを求めるしかありません。便利になったはずの世界は、中途半端に複雑で、時間も心も削られ続けています。技術の進歩がもたらしたのは、便利さの幻想だけ。現実は、効率化と作業量の増加で心をすり減らす毎日です。
昭和の僕らは、21世紀を夢見ました。ロボットに働かせ、人間は自由に、悩みも少なく、宇宙旅行を楽しむ未来。しかし現代は、便利な道具に囲まれながら、自由も余裕もなく、夢は裏切られたままです。便利な未来は、結局、便利そうに見える檻となり、僕たちを縛ります。街灯に照らされた帰り道で、冷たい夜風に頬を撫でられながら、僕たちはただため息をつき、疲れ切った体と心を引きずって家路につくしかないのです。
昭和世代の夢は、現実の前に虚しく砕け散りました。あの頃の僕らが信じた21世紀は、五感で感じる自由も、肌で触れる冒険も、すべてが幻のまま。技術は進歩したのに、僕たちが味わえるのは、虚ろな便利さと、胸の奥に残る微かな寂寥感だけです――そして僕たちは、ただ、夜の街灯に照らされながら、静かにため息をつくしかありません。
(了)
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