実は『遊女』に尊敬の念を抱いている。
大抵の場合、こんな話をすると「は?」と訝しげな顔をされる。でも本当にそう思っている。綺麗だったからではない。哀れだったからでもない。彼女たちの生き様が、心をえぐられるほど美しかったからだ。
遊郭というシステムは、人身売買、搾取、逃げられない構造など、どこを切り取っても不条理の塊だ。だが、その中で遊女たちはただ耐えていたわけではない。
僕には、遊女たちが生かされた場所で、生き切ることを選んだように見える。そのあまりにも真っ直ぐな決意に、僕は目を背けられなかった。
笑顔で客を迎え、声色や話題を操り、空気を読む。酒を酌み、心をほぐし、最後には身体を差し出す。すべては演技。本音をみせたら潰れてしまうから、すべてを演技で塗り固めるしかなかった。でも、それは全て嘘だった訳ではない。
そこにあったのは、「相手を喜ばせる」という純度100%のプロ意識だ。これはもはやサービス業やホスピタリティといった次元ではない。命を削り、心を売っていた。しかも、それを悟られないように。
こんな芸当は普通はできない。しかし、彼女たちはそれをやっていた。やらなければ生きていけなかったからだ。ごまかしも甘えも通用しない世界で、毎日、感情をデザインしていたのだ。
それだけではない。遊女たちは「美」を極めていた。立ち居振る舞い、着物の色彩、言葉遣い、目線の使い方。すべてに意味があった。相手にとって「どんな女であるか」を徹底的に設計していた。SNSの加工アプリなど、かわいらしいものだ。彼女たちは、自分自身を命がけで芸術にまで昇華させていた。
これは媚びではない。魂の表現だ。見られることに耐えながら「それでも私はここにいる」と、無言で叫んでいた。静かに、気高く、笑って。
では、今の僕たちはどうだろうか。
少し居心地が悪くなると「向いてない」「自分らしくない」とすぐに辞めてしまう。それが悪いとは言わない。だが、遊女たちは、自分らしさなんて言葉が許されない場所で、自分だけの美しさを掴み取っていた。しかも、毎日、売られながらだ。
格が違う。
彼女たちのことを「可哀想な存在だった」と言う人がいる。それは間違ってはいない。でも、そんな陳腐な言葉で片付けるのは、彼女たちにとても失礼だ。搾取されながらも、誇りを捨てず、魂まで売り渡さなかった。その踏ん張りが、彼女たちをただの被害者ではなく、生き様の象徴にしたのだ。
何よりも驚いたのは、そんな環境でも義理を重んじていたこと。
金と欲望が渦巻く世界で、誰よりも情に厚かった。裏切られても、傷ついても、それでも信じた。理屈ではなく感情で動いていた。人間の汚さを知り尽くした場所で、人間を見捨てなかったのは驚嘆に値する。すぐ諦め、傷つくのが怖くて、距離を取ってしまう僕には、決して真似できない生き方。
華やかさの裏にある絶望を、彼女たちは知っていた。、それを否定せず、受け入れ、引き受けて生きていた。泣き言を言う暇もなかっただろう。誰にも甘えられなかっただろう。それでも、己の美意識だけは手放さなかった。その覚悟は、どんなインフルエンサーの「努力しました」という言葉よりも重い・・・。
僕は今、毎日をなんとなく生きている。
やりたいことがある気がしても、本気になれず、スマホを見て時間を浪費する。頑張っても報われないなどと言いながら、本気で報われようとしたことなど一度もない。ぬるく、甘い。自分で書いていて、恥ずかしくなる。
遊女たちは、自分の人生を意味のあるものに変えようとしていた。
誰も保証してくれず、明日があるとも限らない。それでも、今日の自分に恥じないように生きていた。
そんな人間の生き様は、刃のように鋭い。だが、涙が出るほど美しい。
僕は、遊女を哀れだとは思わない。むしろ、羨ましいと思っている。あれほどまでに自分の存在に本気で向き合える人間が、この現代にどれほどいるだろうか。承認欲求にまみれ、自分らしさを履き違え、都合のいい「多様性」を隠れ蓑にして痛みから逃げている僕たちとは、根本が違う。
彼女たちは、人生のルールを選べなかった。だが、その中で自分なりのルールを作り、最後まで貫き通した。
それがどれだけ格好よく、どれだけ強いか、僕はもう、笑えるくらい打ちのめされている。だからこそ、彼女たちの生き方には、学ぶ価値があると思っている。
その美意識、覚悟、そして人を思う力は、現代が失いかけている本当の人間性なのではないか。
遊女は、ただの歴史上の女性ではない。
人間とは何か、どう生きるか。そのヒントが、彼女たちの中には詰まっている。
これは教科書に載せるべき生き方だ。少なくとも、『ラクに生きたいだけの僕』には、痛いほど必要な学びだった。
(了)
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