桃尻というものは、あらゆる形態美の中で最も人の心を翻弄する存在であると、僕は信じている。
現に、今も桃尻を想像しながら文章を書いており、「この行為は必要なのか?」と自問自答を繰り返し、続けるべきか、やめるべきか・・・葛藤している。

やめれば良いのに・・・
苦しみながらも書き続ける理由は、桃尻に計り知れない魅力があり、僕には伝える義務があるからである。

ありません!!
桃尻は単なる肉体の一部ではない。そこには古今東西を超えた・・・ほとんど普遍の美が宿っているのだ。丸み、張り、柔らかさ。いずれか一つを欠いても、桃尻は桃尻たり得ないのである。

奇跡的な美である
人間の歴史が衣服と共に歩んできたのは、身体を覆い隠すためだけでなく、その形をより艶やかに見せるためだとさえ思う。
衣服が布である以上、そこには隠すと見せるの二律背反がある。桃尻はその最たる舞台だ。
まず、桃尻について語らねばならない。
直に目にしたときの感覚は、まさに桃そのものだ。手のひらに収まるほどのサイズ感、指先でなぞればわずかに沈み、ゆっくりと元に戻る弾力。光が滑るとき、そこには陰影が生まれ、その境界線は人を惑わせる。
視覚だけでなく、触覚、さらには嗅覚までもを刺激する。肌のきめの細やかさや温もりを知れば、二度と記憶から消すことはできない。

変態・・・
それはまるで、古代の芸術家が理想形を石に刻もうとしたように、脳裏に焼きつく。あれは理性の外にある美だ。
さらに、桃尻の真の魔力は、布越しにこそ現れる。
生で見るときの直接的な官能とは異なり、布一枚を隔てたとき、その輪郭や質感は、想像を超えた領域へと移る。
・・・これは、人間の欲をもっとも膨らませる仕掛けであり、古来、衣服という文明の副産物が果たしてきた役割である。

そんなことはない
たとえば、ジーンズ越しの桃尻。これは布の中でも最も挑発的な存在である。厚手のデニムが形を隠すかと思えば、その張りを誇示する。
歩くたび、縫い目に沿ってかすかに揺れる動きが、観る者の視線を吸い寄せる・・・。ポケットの位置や縫い糸の走りが、逆に丸みを強調する。ときに腰骨の辺りからわずかに見えるベルトのラインが、その下に続く柔らかさを暗示する。

そそるぜ・・・
触れたら固さと弾力が同居する、不思議な感触が返ってくることを知っているからこそ、余計にそそられる。
また、浴衣越しの桃尻は、これとは別種の妖艶さを持つ。薄く柔らかな木綿の生地が、身体に沿ってふわりと落ちる。腰紐の位置で一度絞られ、その下でやや膨らむ。この「くびれからの膨らみ」の落差こそ、浴衣の妙である。
歩くたびに布が揺れ、瞬間的にその輪郭があらわになる。夏の夕暮れ、うちわで仰ぐ仕草に合わせて、布と肌の間に風が入り、形が一瞬だけ際立つ。
その刹那の浮かび上がりは、直視するよりもはるかに色っぽい。江戸の粋人たちが、花火大会や縁日を口実に人混みを歩いた理由は、この揺らぎの一瞬にあったと確信する。

至極、幸せです!!
スカート越しの桃尻もまた、別の誘惑を秘めている。スカートの種類によって、見せ方がまるで違う。タイトスカートなら、布の張りが曲線を寸分違わずなぞり、その締まり具合を克明に伝える。フレアスカートやプリーツスカートなら、動きに合わせて形が隠れたり現れたりする。その不確かさが、観る者の想像をかき立てる。
特に椅子から立ち上がる瞬間や、階段を上るとき、布が引かれて丸みが一層際立つ。視線は意志に反して、自然とそこに吸い寄せられる。
布越し、直の差を問わず、桃尻には必ず「陰影」が存在する。
この陰影こそが、立体感と生命感を与える。絵画や彫刻の巨匠たちがこぞって光と影の表現に心血を注いだのは、このためだ。陰影は形の証であり、質感の証である。
そして、その陰影が時間とともに移ろうとき、人は無意識に息を呑む。歩けば揺れ、座れば沈み、立てば再び形を取り戻す。静と動、その両方に桃尻は存在感を放つ。

もはや芸術である
思えば、桃尻という言葉そのものが、既に色を孕んでいる。
「桃」という果実は、古来より瑞々しさと甘やかさの象徴であった。
中国の詩人たちは桃を長寿や豊穣の象徴として詠み、やがてそれは形の美と結びついた。西洋においても、ヴィーナス像の腰から臀部にかけての曲線は、生命を産む力の象徴であった。
つまり、桃尻の魅力は単なる性的嗜好ではなく、生命の根源的な美への本能的な賛美なのである。
僕は誰に何を言われようが、あらゆる形態の桃尻を愛する。生の、ジーンズ越しの、浴衣越しの、スカート越しの・・・。それぞれに違う官能があり、それぞれが唯一無二だ。

変態っ!!
布があるからこその想像、生だからこその直感。どちらが上ということはない。ただ、その瞬間にしか味わえぬ情景がある。それは時代や文化が変わっても変わらぬ、人の性の深みである。
桃尻は、ただ眺めるだけで完結することもあれば、触れて初めてわかることもある。その両方が、人をして長く心に留めさせる。
僕は、断言する。桃尻は美の極致である。
(了)
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