我々男性は、何故だか、女性の下着に心を奪われがちだ。

何の告白?
パンツやブラといったアイテムそのものに惹かれているのか? それとも、下着を身につけた姿に魅了されているのか? いや、いっそ何もまとわない生まれたままの姿こそ至高なのか?
──考え出すと、これは実に哲学的な問いである。

答えは出ない・・・
人の性癖は十人十色だ。レースの透け感に心を奪われる者もいれば、ワンポイントのリボンにときめく者もいる。
「隠されている」という事実にこそロマンを感じる者もいるだろう。結局のところ、何に興奮するかは個々の嗜好《しこう》に委「ゆだ》ねられている。

変態ばかり・・・
ここでは、あくまで一人の男の視点から、その偏った(かもしれない)下着への思いを語ってみたい。
下着は「ただの布」なのか?

冷静に考えれば、女子の下着はただの布、大量生産された工業製品にすぎない。にもかかわらず、そこにはなぜか妙な魔力が宿っているように感じられる。

不思議である
僕なりの結論を言えば、下着そのものには興奮しない。ランジェリーショップに山積みされたパンツを見て心を躍らせる男がいたら、正直、心配になる。だって、それはただの布きれだからだ。

でも、いそう・・・
では、なぜ我々は布に惹かれるのか?
想像力という名の魔法

答えは単純だ。下着の魅力は「想像力」と結びついたときに初めて生まれる。

高度なエロなのだ!
干してある洗濯物を見ても、生活感しかない。
だが、それが「彼女がさっきまで身につけていたもの」だと想像した瞬間、胸は高鳴る。
下着とは、布そのものではなく、想像力をかき立てる「きっかけ」なのだ。人は勝手に物語をつくり、勝手に盛り上がる。

やめて・・・
布はただの触媒にすぎない。
謎が消えた瞬間の静けさ

不思議なことに、下着があるときには心が躍るのに、いざそれがなくなった瞬間、なぜか冷静になってしまう。

えッ?!
もちろん達成感はある。だが同時に、頭の中で鳴り響いていたファンファーレがふっと止み、奇妙な静けさが訪れるのだ。

何故か・・・
これは相手のせいではない。原因は自分の中にある。
「未知」が「既知」に変わると、想像は行き場を失う。探検が終わってしまった冒険者のように、心は落ち着いてしまう。

そうなの?!
下着とはつまり「謎を提示する装置」であり、期待を最大化する演出なのだ。
舞台装置としての下着

僕にとってパンツは舞台の幕である。

何を言い出す?!
観客は、幕が閉じているからこそ開演を待ち望む。開いた瞬間の高揚を生み出すためにこそ、幕は存在する。
ブラは伏線だ。物語の序盤に散りばめられた小さなヒントのように、「この先に何かある」と期待させる。
外されたとき、すべての伏線が回収され、物語は一気にクライマックスへとなだれ込む。

気分を上げてく・・・
そして、下着全体はサスペンスの扉である。閉じられているからこそ、開けたくなる。人間とは、本来“謎”に惹かれる生き物なのだ。
「着ている状態」こそが完成形

結局のところ、男はすべてを見たいわけではない。

そうなの?!

少なくとも、僕は・・・
少しだけ隠されているからこそ、想像し、勝手にワクワクし、勝手に物語を紡いでしまう。
謎があること。余白があること。その中にこそ、僕らの幸福は潜んでいる。

なんか、恥ずかしい・・・
下着は脱がれた瞬間がゴールではない。
むしろ、着ている状態こそが完成形であり、そこにこそ最大の美学がある。
脱げばそれはただの布きれに戻る。しかし、身につけているときには舞台の幕であり、伏線であり、扉である。

下着は偉大である
もし人類が全裸で暮らしていたら、僕らの想像力はここまで育たなかっただろう。
下着とは、単なる布ではない。それは人間の想像力を豊かにし、恋愛や情熱に“演出”を与えてくれる、世界でもっとも偉大な小道具なのだ。
(了)
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