氷河期世代 50代のリアル。再出発の不安と、それでも歩き続ける理由

コラムという名の雑記

父親として、息子たちに莫大な財産や権力など残してやれるはずもない。まして、自分自身の老後がどうなるのかすら、漠然ばくぜんとした不安の影がまとわりつく。今年でちょうど50歳を迎え、人生の折り返し地点に立っていることを痛感する。氷河期世代の僕は、これまでの生活に見切りをつけ、再出発を余儀なくされている。しかし、希望の光は見えず、むしろ胸の内に積もる将来への不安が、日に日に重くのしかかるばかりだ。

通勤電車内を見回すと、疲れ切った顔をした同年代らしき男たちの姿が目に飛び込んでくる。その寂しげな背中が、いつしか自分と重なり、切なさと親近感がこみあげてくる。かつて「おじさん」と呼んでいた世代に、いつの間にか僕自身が足をみ入れていた。若い頃は、50歳になればもっと立派な大人になっていると信じていた。成功を手にし、家族や社会に頼られる存在になるものだと。

だが現実は甘くなかった。むしろ、年齢を重ねるごとに新たな不安の波が押し寄せてくる。子どもの教育費、老親の介護、退職後の生活設計・・・。夜、一人で思いを巡らせると、胸がめ付けられる。

息子が小学生だった、あの授業参観の日。

「僕の理想は、お父さんみたいに楽しそうに生きる大人になること」と息子が発表した。大したこともしていないと思っていた僕にとって、その言葉は胸に深く刺さり、熱いものがこみあげてきた。

僕は大成功を収めたわけでも、華々しい経歴があるわけでもない。それでも、家族を支え、ささやかな楽しみを見つけながら、子どもたちの夢を応援してきた。社会の荒波にもまれながら、なんとか踏ん張ってきた。そんな地道な努力でも、誇れる価値があると信じたい。

僕たち氷河期世代は、誰にも救われることなく、「自己責任」という冷たい言葉を突きつけられてきた。理不尽な環境に置かれても、頼れる人はほとんどなく、自力で道を切り開くしかなかった。それでも僕は、息子たちには人生の楽しさを知ってほしい。社会に失望や怒りではなく、可能性を信じて生き抜く強さを持ってほしいと願う。

友人たちと語り合えば、皆が同じような悩みを抱え、静かに闘っている。それでも、それぞれが工夫を重ね、家族や自分のために必死に生きている。冷め切ったこの時代に、まだ自分には果たすべき役割があると信じているのだ。

どんな時代にも不安や困難はつきものだが、それでも人々は前を向いて努力してきた。僕たちも、まだ負けるわけにはいかない。

50歳という年齢は、人生の終着点ではない。過去に積み重ねてきた経験を糧に、次のステップへと進むための大切な時期だ。僕は息子たちに何も残せないかもしれない。だが、誠実に生きる姿勢や、困難に立ち向かう勇気を見せることはできる。それこそが、お金では買えない、かけがえのない財産だと信じている。

今、僕にできることは、目の前の仕事に全力で取り組み、家族を大切にしながら、少しずつ未来への準備を進めること。

派手な成功とは無縁だったかもしれないが、地道な努力を積み重ねてきた自負がある。そして、その姿を通じて、子どもたちに次の世代へとつなぐ希望を感じてほしい。

通勤電車の窓に映る、疲れた表情の自分。向かいに座る同年代の男も、きっと僕と同じような思いを抱えているのだろう。それだからこそ、僕たちは明日もそれぞれの場所で、全力を尽くし続ける。それがこの社会を支え、次世代へつなぐ僕たちの役目だと信じている。

50歳。人生の折り返し地点に立ちながら、まだまだやれることはたくさんある。僕たち一人ひとりの小さな努力が、未来を少しずつ良くしていく一歩になる。胸に秘めた不安と、かすかな希望を抱えながら、それでも楽しさを見出して前に進んでいきたい。

(了)

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