僕は昔から、人とは少し違うと言われることが多い。自分でも自覚はあるけれど「変わってるね」と面と向かって言われると、心の中では少しだけモヤッとする。いや、本当は嬉しい。僕にとって、「変わっている」というのは最高の褒め言葉だから。
他人にどう思われるかを気にしはじめると、キリがない。他人の評価に一喜一憂して、自分の機嫌まで損なってしまうのはもったいない。それなら、自分が心から楽しめるかどうかを最優先に考えた方が、人生全体で見て得をする。僕はいつもそう思っている。
僕には、どんなことでも「どうすれば面白くできるか」を考えてしまう癖がある。誰もやりたがらないような地味で単調な作業や、面倒くさいルーティンワーク。普通の人なら「ああ、しんどいな」とため息をつくような場面でも、僕は一瞬立ち止まり、頭の中で壮大な妄想を始める。
以前、仕事で膨大な量の古い紙資料をデータに打ち込むという、誰もが嫌がるような苦行を命じられたことがある。パソコンが得意なシステム担当だからという理由だけで、僕に白羽の矢が立ったのだ。世間一般の人からすると、システム担当は暇だと思われているらしい。手書きの走り書き、判読不能な文字、そして埃をかぶった紙の束を前に、僕のテンションは地の底を這っていた。
しかし、そのとき僕の脳裏に突如としてひらめきが浮かんだ。「これって、まるで考古学じゃないか?」という発想だ。その瞬間、僕の中での作業はガラリと変わった。
僕は、古代遺跡を発掘する考古学者のように、一枚一枚の資料を「過去から届いたメッセージ」として読み解く自分を想像した。すると、なんだかワクワクしてきたのだ。データ入力作業は、僕の中では発掘作業へと姿を変えた。資料の中からちょっとした発見があると、「これは古代文明の謎を解く手がかりになる!」と、一人で勝手に盛り上がっていた。周りから見れば、不審な人に見えたかもしれない。しかし、僕は心からこの作業を楽しんでいた。
最初は、周囲の目も冷ややかだった。「あいつ、なんか一人でニヤニヤしてるぞ」と、気味悪がられていたのかもしれない。しかし、不思議なもので、人は楽しんでいる人に自然と引き寄せられるものだ。ある同僚が「なんでそんなに楽しそうなの?」と話しかけてきて、僕の「考古学ごっこ」に興味を持ってくれた。そこから少しずつ、周囲の空気が変わっていった。
「じゃあ、私はこの作業をRPGのクエストだと思ってやってみる」と言い出す人が現れた。気づけば、みんなで「今日の作業のMVPは誰か」などと勝手にランキングをつけ始め、作業はちょっとしたチーム内イベントへと発展していった。驚くべきことに、作業全体の進捗は飛躍的に向上し、上司もその変化に目を丸くしていた。やはり、「楽しい」という感情の力は計り知れない。
僕のこの性格は、良い意味でも悪い意味でも、妄想力が過剰なのだと思う。子どものころから、段ボールひとつで秘密基地を作ったり、掃除を「敵のアジト掃討作戦」に見立てたりしていた。大人になった今でも、その癖は抜けない。むしろ仕事でその能力が存分に発揮されるようになったから、手に負えない(でも、ちょっと誇らしい)。
以前、会社で大々的な整理整頓プロジェクトを任されたときもそうだった。誰もやりたがらない、雑然とした備品棚と倉庫の片付け。最初にその話を聞いたときは、「面倒くせえ!」と心の中で叫んだ。しかし同時に、こうも思ったのだ。「これは・・・秘密基地づくりだ!」と。
効率的な収納方法を考え、誰にとっても使いやすい配置を設計し、スムーズな動線を確保する。それはまるで、壮大なミッションを遂行しているようだった。結果として、見た目も使い勝手も格段に良くなり、経営陣からも「素晴らしい仕事だ」と高く評価された。しかし、僕は別に評価されたいからやったわけではない。ただ、目の前の状況をいかに面白くできるか、その一点を追求しただけなのだ。
もちろん、何でもかんでも楽しくできるわけではない。失敗することもあれば、空回りしてただ疲れるだけで終わることもある。それでも、僕は「自分が楽しかったからOK」と考えるようにしている。これは、ただの自己満足かもしれない。しかし、自己満足を全力でやり抜くと、不思議と人がついてきてくれる。きっと、「楽しい」という感情は伝染するのだろう。
僕の中で「楽しむこと」は、人生を生き抜くための重要な戦略だ。現実は厳しいし、社会で求められることは山ほどある。税金も払わなければならないし、ルールも守らなければならない。理不尽なことだってあるし、やりたくない仕事も降ってくる。だからこそ、それらをどうやったら面白く乗りこなせるかを考えることが、とても大切だと思う。
「ふざけている」「現実逃避だ」と批判されることもよくある。だけど僕は、現実から目を背けているわけではない。むしろ、現実をしっかりと受け止めた上で、どうすれば楽しく乗り越えられるかを探している。それは甘えではなく、知恵だ。楽しさというのは、努力して作り出すものでもある。誰かから与えられるものではなく、自分自身で掘り起こすものなのだ。
たぶん最初に「私は変人です!」と宣言した者勝ちだと思う。誰かが先に「私はこうやって人生を楽しんでいます」と宣言すれば、「あ、こんな楽しみ方をしていいんだ」と、似たような考えを持つ人たちが自然と集まってくる。変人の輪は、そうやって少しずつ広がっていく。だから僕は、これからも堂々と変人でいたいし、もっともっと「楽しみ方の幅」を広げていきたい。
人生は一度きりだ。他人の評価や、世間一般の「正しい」とされる価値観に縛られて、自分の心の声に蓋をして生きるのは、あまりにももったいない。どうせなら、仕事も人間関係も、そして毎日の何気ない瞬間も、自分なりのやり方で面白がって生きていきたい。
僕は全力で人生を楽しみたい。そんな僕の生き方が、誰かの「まあ、そういう生き方もアリかもね」という心の余裕につながるなら、それ以上の幸せはないだろう。
(了)
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