年功序列が悪いのではなく、これまでの経験や知識を活かすことができない人間、もしくは、経験をしていないくせに偉そうな顔をしている上司、さらには働かないおじさんが多いのが問題なのです。
年功序列という制度が上手く機能していた頃は、勤続年数と過去に味わった不幸の量が比例していて、勤続年数が長い人間は、想像を絶する窮地を乗り越えてきた人間でした。ですが、会社から不幸に見合った対価を払えなかったため、過去の賃金を後払いの意味も含め、それなりのポジションを与え、長く勤めてくれた人に高い給料を払っていたのです。
そもそも、仕事ができる人間は、生まれながらに仕事のセンスがあったわけではなく、地獄のような理不尽や不運に見舞われ、悪魔と対峙し、逃げることなく戦い、乗り越えてきたから、強く逞しい人間になりました。つまり、経験と知恵がセンスを磨いたのです。
魑魅魍魎が蠢く、自由経済社会の荒波に揉まれ、それでも潰れることなく、会社に残っている人間は、地獄の淵でサバイブしてきた並外れた知恵と経験を持っていたのです。
地獄のような生活を送り、知恵と経験を蓄えてきた人間は、会社として高い給料を払ってでも会社にいて欲しいだろうし、多くの人間から尊敬される立場を与える必要があります。稀に仕事ができる若者もいますが、ほとんどの場合、仕事ができる人間とは、過去に精神的にも肉体的にも、ズタボロにされ、深傷をおいながらも「僕は大丈夫さ」と自分を誤魔化し、尋常な精神状態では乗り越えられないピンチを易々と華麗にかわしてきた人間です。
それは、昭和の古い価値観だったのかもしれませんが、事実、そんな命懸けで会社のピンチを救ってくれた人間がいたから、現在も会社が存続できているわけだし、そんな強く逞しい人間は、会社、仕事、働くことで生まれる理不尽や不運を愛している。だから、会社から評価をされるべきです。
会社のために命を削ってきた人間を卑下することは、人道的にも道徳的にも不可能だし、味わった地獄の数だけ、経験と知識を蓄えているので、会社にとっては高い給料を払ってでも会社に置いておきたい人間。少なくとも、年功序列という制度を活かすためには、そうでなければなりません。
こんな素晴らしい制度なのに、年功序列が崩壊してしまうのは、これまでの経験や知識を活かすことができないおじさん、もしくは、経験をしていないくせに偉そうな顔をして何もしない「働かないおじさん」が増えたからです。クソの役にも立たない人間が、のほほんと上司風を吹かせ、偉そうにのさばり回っているからなのです。
まずひとつ目の問題。
なぜ、長年積み重ねてきた地獄をサバイブする知恵や経験が下に伝わらないのか。
その原因は、会社に残ったおじさんは、過去に多くの理不尽や不運を経験したことで、本人でも気づかぬうちに人間としての規格を超えた逞しさを身につけてしまったからです。そして、そんなおじさんは、生まれたての人畜無害な若者に同じ逞しさを求めてしまうので「なんでこんな簡単なことができないんだ」とイライラしてしまいます。そして、アドバイスを受けた若者は想像を絶するアドバイスに「マジで死ねるわ」と昇天してしまうのです。
理不尽が当たり前の地獄をサバイブしてきたおじさんは、いつでも、満身創痍になった自分に誇りを持ち、しばらく、傷を癒やしたら、誰もが尻込みする業火に飛び込み、不死鳥の如く蘇り、さらに強く成長してきました。
そんな人間は、誰もが逃げるであろう不運に飛び込むことに生きがいを感じています。尋常じゃなく逞しく強くなった人間は、好んで火の中に飛び込み、火中の栗を拾いたがる。そんなマインドを押しつけられても、現代の何でも欲しいものは手に入る世代の若者には響かない。響かないというより、避けられてしまいます。
そんな理由で、本来なら、他者が喉から手が出るほど欲しがる価値の経験と知恵は社内で活用されないのです。
一方、終身雇用、年功序列という制度の隙をつき、仕事もできないのに会社で偉そうにしているクズのような人間・・・働かないおじさんもいます。上司に対して人当たりが良く、いつも温和でニコニコしている人間で、社内政治で手腕を発揮し、不運や理不尽から上手く逃げ回り、会社に媚を売り、仕事をしている体で、会社にしがみつく。何の取り柄もないくせに、さながらコバンザメのように会社にしがみつく働かないおじさんは、どんな組織にもいます。自ら、不運に飛び込み、サバイブしてきた強く逞しいおじさんとは水と油で、根性よりも、頭を使ってラクすることが正義と考えているおじさん。
仕事をして、その対価をもらうという基本的な雇用体系の隙をつき、仕事をしてきたフリをして、会社を騙し続けているだけの働かないおじさんは、誠実で真面目な人間のフリを続け、何の生産性もないのに会社にとって害はないと思われ、重宝される傾向にあります。会社の見る目がないと言ってしまえば、お終いなのですが、上手い具合に会社に貢献しているフリをして、言われたことに文句も言わず、好かれるようにおべんちゃらを使うのです。
人間誰しも褒られれば嫌いになることはありません。これは会社という組織においても当てはまります。自分のクビを絞めること以外は何でも賛成し、周りの人間に責任を押し付け、手柄は自分のモノにすることに長けたおじさんです。そんな働かないおじさんは、現代の若者、もとい、誰もが尊敬しようなんて思わないし、そんな人間の下で働こうという人間もいりません。
そもそも、誰もが幸せになる社会の実現は不可能で、誰かにしわ寄せが来るのが社会。こちらのエゴを通せば、誰かがそのエゴをかぶる必要が出てきてしまう。社会とはそういうものなのです。そうやって働かず、他人の稼ぎで食っているおじさんがいれば、その分の仕事は部下や後輩、会社全体の負荷となるのです。
平成から続く不景気の影響もあり、会社にどれだけ貢献しても、対価が払われないという不安が芽生え、悶々とした気持ちを会社に抱き、仕事ができる人間は、より自分を評価してくれる会社を求め、会社を去っていきます。そして、逞しく仕事できるおじさんが去ることによって残るのは、働かないおじさんと、働かないおじさん予備軍のみ・・・。
そして、日本人が苦手とする成果主義という制度の導入を検討する企業が増えます。ですが、これも同じ理由で崩壊する危険があるのです。
結局、仕事ができるというのは頭が良いとか、効率的であるということの前に『センス』が必要で、そのセンスは経験と知識で形成されるモノなのです。つまり、いくら優秀な若者であっても、仕事中に降りかかる想定外の理不尽や不運を乗り越えられる類稀なる逞しさを持っているなんてことはありません。作業に対する知識は備えていたとしても、予想を超え、ななめ上から、理不尽が降りかかることは、仕事をしていると日常茶飯事です。想定外の出来事に対処するには、思ったより多くの経験と知識が必要で、長年の苦労で鍛えられた強靭な人間には敵わないのです。
つまり、その狭い世界では、経験を重ねた強靭な人間がしばらく牛耳ることになり、マゾ気質な人間でも避けてしまうような「死ねるアドバイス」を受けることになります。
強靭で逞しい人間だけが評価されるようになると、年齢を重ねた老獪なおべんちゃらを使う働かないおじさんだけでなく、浅はかな若者も、会社に取り入ろうと媚を売り、ラクをしようと考えるのです。そうなると、会社は疑心暗鬼になり、仕事をせずにラクをして対価を得ようとする人間を排他する方向に修正をします。
本来の成果主義の在り方なので、一見正しいように思えますが大きな問題があります。それは、変態的な逞しさで、サバイブしてきた人間しか、社内に残らなくなってしまうことです。働かないおじさんは排他され、経験が少なくサバイブする能力が低い若者は逞しいおじさんに対応ができず働けない。残るのは変態的なマゾ気質のおじさんだけ・・・という問題が起きるのです。
個人的には、年功序列は日本人向きの制度だと思っています。年功序列が悪いのではなく、これまでの経験や知識を活かすことができない人間、もしくは、経験をしていないくせに偉そうな顔をして何もしない、働かないおじさんが、多いのが問題なのです。
つまり、成果主義にしても、年功序列にしても、問題は働かないおじさんで、その犠牲になるのは、いつも若者です。成果主義を喜ぶのは、理不尽や不運が好物な変態的に逞しいおじさんだけです。
年功序列を廃止する前に、仕事をしないくせに高い給料をもらっている働かないおじさんたちを一掃しなければ、何をしても問題解決はしません。
ただ、時代の流れは年功序列を廃止する方向で流れています。問題の本質は違うところにあるのに・・・。これは日本経済を復活させるためにも必要です。心を鬼にして実行しなければなりません。
それは「働かないおじさん」を世の中から抹消することです。
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