他人の幸せのために、自己犠牲をするのが正義です。
現実世界に『正義のヒーロー』なんて存在しません。それは、知らない人間のために、進んで犠牲になる奇特な人間がいないからです。
少なくとも、僕は、知らない人間どころか、嫌いな人間のために犠牲になることに、ひどく抵抗があります。と言うか、嫌いな人間のために犠牲になるくらいなら、悪人として認識された方がマシだと思っています。
僕は自分と自分の周りの人間だけが幸せになれば、僕の狭い世界では十分に幸せなのです。残念ながら、見ず知らずの他人や、嫌いな人間の幸せを望むほど、人間ができてはいません。
もし仮に、使い切れない程の莫大の資産と、誰もがひれ伏す強大な権力を持ち、自分と自分の周りの人間の幸せが保証できるなら、見ず知らずの他人の幸せの手助けはします。嫌いな人間以外の幸せを実現します。誰に何と言われようと、嫌いな人間のために一秒も使いたくないし、まばたきすらしたくありません。
そこまで?
つまり、僕はどこまで行っても悪人なのである。嫌いな人間のために犠牲になることはない。
絶対に嫌だっ!!
あなたは、そんな僕のために犠牲になってくれますか?
無理だね・・・
憧れの『正義のヒーロー』とは
実現が可能か、不可能かは別として、世の中の仕組みを知らない純粋無垢な子供たちが憧れる「正義のヒーロー」は、見ず知らずの人間をピンチから救い、報酬も取らず、笑顔で颯爽と去っていくのです。
さて、もし仮に僕が正義のヒーローを職業に選んだとします。僕がヒーローであれば、見ず知らずの人間がピンチになっていたら、すごく観察をすると思う・・・。
「この人は、助けた後、仲良くなれるかな・・・嫌な奴だったら面倒だな・・・」
とピンチを迎え、必死に助けを求めている人の値踏みします。もし、嫌なヤツっぽいと僕が判断した場合、ごめんなさい・・・助けることはない。助けようとはせず、見て見ぬふりを決め込みます。
それは良くないと思う・・・
残念ながら、僕は、他人を助ける特殊能力を持っていても、正義のヒーローにはなれません。もとい、なりたくありません。
他人のために犠牲になれる人間
そもそも、博愛精神と呼ばれる偽善者の戯言に耳を傾けてしまうのは、実現不可能な精神論を信じたいと思うからです。「好き嫌い、敵味方に関係なく、誰にでも平等に愛する」なんて、おとぎ話の登場人物的な人間が存在する訳はありません。
その証拠に、神と呼ばれる方たちも、その神を崇める信者たちも、他の宗教を信じる人たちを憎み、争いを続けているのです。
あなたは神を超えるつもりですか?
そんなことはない・・・
つまり、神と呼ばれ、崇められる方たちも、結局は、自分と自分の周りの人間だけが幸せになる世界しか、想像できなかった・・・もしくは、自分と自分の周りの人間が幸せになれば、知らない人や嫌いな人の幸せなど、どうでも良いと考えていたのです。
見ず知らずの人間や、嫌いな人間のために犠牲になることに疑問を持たないとしたら、これまでの生活や教育で、利用される側の人間として洗脳されてしまっているのです。残念ながら、そう言うことなのです。
他人のために自己犠牲をしても、あなたには見返りはありません。あるのは、残るのは疲労感と、虚しさだけです。
世知辛い・・・
自分と自分の周りに目を向けよう
僕の価値観を押し付ける訳ではありませんが、あなたが、他人の幸せのために自己犠牲をする必要があるでしょうか。
僕だって、子、親、親戚、仲間のためであれば、躊躇うことなく、自己犠牲します。見返りなど求めず、困っているなら手助けするし、役に立ちたいと思います。
ですが、見ず知らずの他人、嫌いな人間のために自己犠牲をする気は、一ミリもありません。さらに、自己犠牲を強要してくる人間には、盛大に反発し、反撃します。
大人気ない・・・
他人ために自己犠牲をするなら、心を鬼にして、自分や自分の周りの幸せのために時間と手間をかけた方が良いと思いませんか。
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