ユーノス・ロードスター。通称、NAロードスター。僕の愛車である。
あちこち不具合はあるが、30年以上も前に製造されたクルマなので、仕方がないと割り切っている。
そんなに古いんだ・・・
古い車ではあるが、運転する楽しさは十分味わえるし、唯一無二のデザインのおかげで、周りから羨望の眼差しを受け、運転しているだけで優越感が味わえる。
なんか性格悪そう・・・
もちろん、現代の車と比べるとアレもコレも装備されておらず、運転していると不便だし、不快に感じることが多々ある。だが、不便がないと楽しめないのである。むしろ、不便なロードスターだからこそ、楽しいのだ。
何にしてもそうだが、楽しむという行為は、時間と手間、または、お金を無駄に使うことで、便利であればあるほど、快適であればあるほど、楽しみというのは減少する。少なくとも、僕のこれまでの経験で、楽しいと思えることは、それなりに労力を必要とするもだと思っている。
そうなの?
端的に言うと『便利過ぎると面白くない』のだ。
どこぞの声の大きい快適至上主義者のせいで、世の中がどんどんと便利になり、苦労することなく、誰でもできるのが正義であるという、間違った価値観が蔓延し、楽しいハズの行為が、味気なくなってしまったのだ。
ほぅ・・・聞こうじゃないか
便利過ぎると楽しめない
そもそも、趣味というのは、経済的にも、時間的にも、無駄なことを楽しむ行為であり、簡単に誰にでもできることは趣味にはなり得ないのである。
つまり、不便なことを知識と経験を用いて、どれだけ快適にするか・・・マイナスからプラスの状態にすることを楽しむのが趣味なのだ。
分かる気がする・・・
思い通りにならないことだからこそ、自ら研究し、トライアンドエラーを繰り返し、上手くいった時の達成感に至福の喜びを感じる。達成するまでの道のりが険しければ、険しいほど、大きな喜びとなって跳ね返ってくるのだ。
何でもそうだが、便利過ぎると楽しむ行為ではなく、ただの作業になってしまうのである。
例えば、誰もが便利だと思う現代の車の多くからは、運転の楽しさは減り、移動先で楽しむための移動手段のひとつとして捉えられるようになってしまった。
不便な車は、移動すること・・・運転をすることに楽しみを与え、目的地のないドライブですら、幸せなひとときを提供する。
移動を楽しむ・・・
便利な世の中は余裕を奪う
便利な世の中になればなるほど、そこに生きる人間の余裕は失われていく。
そんなことないでしょ?
便利になれば、苦労していた作業がラクになり、時間的な余裕が生まれ、楽しむ時間が増えるような錯覚を覚えるが、実際には世の中が便利になるにつれて、人々の余裕を奪っている。
もちろん、科学技術の発展の恩恵は、計り知れなく、いまさら、縄文時代のような生活を送れと言われたら、断固拒否をする。そういう話ではない。
世の中が便利になり、目まぐるしいスピードで時間が流れるようになり、牧歌的に楽しむ余裕がなくなってしまったのだ。僕が子どもだった昭和の終わりから平成のはじめ頃より、技術は発展し、苦労せずとも、誰でも同じような水準でできることが増えた。
ただ、便利になったのに、一向に余裕は生まれないのである。むしろ、何かに追われるような脅迫概念が芽生え、セカセカと動くことが正義のような錯覚に苛まれている。少なくとも、僕の周りの人間を見ると、余裕がないように思える。
そうかも・・・
ユーノス・ロードスター
とは言え、僕は「あの頃は良かった」などと言う懐古的な性格ではない。便利な世の中で、その最先端を突き進むシステムエンジニアを生業としている。
どちらかと言えば、効率厨のところがあるし、無駄や手間を排他することに躍起になっている人間である。
言ってることが違う・・・
ただ、それは、誰もが面倒だと思う、厄介に思う作業についてであり、趣味や楽しむこととは別である。
例えば、ユーノス・ロードスターである。
ユーノス・ロードスターは1989年にデビューしたライトウェイとスポーツカーで、仮に当時の最高水準の技術で製造されていたとしても、30年以上前の技術であり、現代の技術と比べたら、陳腐であり、単純な製造方法で製造されている。
つまり、現代の車と比べると、安全性も、快適性も、走行能力も、全てが劣っている。一言でいえば不便なのだ。
でも、楽し過ぎる
不便だからこそ、楽しめる
何度も言うが、僕は生活がラクな方向に進歩・発展することは歓迎している。だが、『楽しみ』と言うのは、どれだけ手間と時間を掛けることができるかが、判断基準であるような気がしてならない。
例えば、ロードスターは、イグニッションキーを回し、エンジンを掛ける。暗ければ、レバーを回し、リクトラブルヘッドライトを開ける・・・そんな儀式が、これから運転をするという気分を高めてくれる。左足でクラッチを切り、ギアをローに入れ、右足でアクセルを踏み、エンジンの回転数を上げ、クラッチを丁寧に繋いでいく。上がっていくスピードに合わせ、ギアを選択する。もちろん、コンピュータ制御など皆無で、メカ的に動力をタイヤに伝え、曲がる角度に合わせ、ハンドルを切っていく・・・。
現代のコンピュータ制御が入り、快適で安全な車とは違い、全てが運転手のサジ加減である。勝手にライトが点くこともないし、前を走る車のスピードに合わせて走ってくれることもない。全てを自らする手間が発生する。
意味が分からない・・・
気を抜けば、事故を起こしてしまう危険な乗り物を操作しているという緊張感もあるし、現代の車のような過度な制御がなく、運転技術と快適性・安全性がリンクをするのである。
操作する楽しさとは
乗っているだけで、目的地に運んでくれるような便利で快適な車は、操作する楽しみなど皆無である。これから技術が発展し、自動運転の車が出てきたら、運転するという感覚は失われ、運ばれている間に、どうやって楽しむかという方向にシフトしてくる。
ぶっちゃけ、そうなったら、電車やバス、タクシーと何も変わらないし、車である必要はない。
確かに・・・
そもそも、1,000kgを超える鉄の塊を自ら操作して、自分の思い通りに動かす快感を知ってしまったら、何もしないで乗っていることはできないのだ。
僕が思うに、便利になるのは喜ばしいことだが、便利になり過ぎると楽しむどころか、作業としか認識できず、面倒くさく感じてしまう。ある程度の不便があるからこそ、楽しめるのだと思う。
令和の現代は、不便なクルマを一般庶民が楽しめる最後のとき。悩んでいるうちに、手に入れられない価格になってしまうのだ。
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