上手な人付き合いとは、他人に迷惑を掛けないことではなく、むしろ迷惑を掛け合える仲間を作ることなのではないでしょうか。人数は少なくても構いません。全てを許し合える、たった一握りの仲間を見つけることが大切です。
現代では、他人と深く関わることは面倒だと思われることも多く、希薄で淡白な関係が正義とされる風潮さえあります。そのため、人と密に繋がることが「悪」とみなされることもあるのです。僕も、どちらかというと「他人は他人、自分は自分」と割り切っていて、多くの人と関わることは面倒に感じます。
でも、仲間との関係は別です。まるで江戸時代の長屋のように、お互いのことを何でも知っていて、パーソナルスペースも遠慮もない。それでも、仲間だからこそ、互いに心地よく心の中に入り合うことができます。
僕は自分でも認識していますが、嫌いな人のことは徹底的に嫌いです。そんな人と愛想笑いで接することはできません。視界に入ったり声を聞くだけで、身体が拒否反応を示すこともあります。
他人行儀に遠慮して接するのも、されるのも苦手です。遠慮する相手とは仲間にはなれません。そのため、仲間や仲間予備軍には遠慮せずに距離を縮めます。逆に、それを不快に思う人とは自然と距離ができ、仲間にはなれません。赤の他人として割り切れば、それで十分だと思います。
確かに、仲間を作り心を許すことは面倒かもしれません。しかし、仲間がいない生活は僕には考えられません。現代社会で忌避されがちな「仲間との深い付き合い」を、僕は求めています。いつかは『悪の組織』を名乗り、大好きな仲間たちと自由に遊び、笑いながら生活する――現実的かどうかは別として、その夢を抱いています。
仲間とは、損得抜きで付き合える人たちです。僕は仲間のためなら自己犠牲も厭わないですし、困ったときには助けてもらいたいと思っています。信用できない人や一緒にいて不快な人は仲間にしたくありません。そのため、鈍感な人でも気づくほどの「近づくなオーラ」を出しています。
優等生ぶった人たちから「誰にでも差別なく接しましょう」と言われても、僕には関係ありません。僕は正しく生きるつもりもないですし、悪だと思われても痛くも痒くもありません。むしろ悪の方が面白いと思います。だから、指摘されても心を改める気はありません。
誰とでも平等に接するべき、いい人でいるべき――そんな考えを信じて嫌いな人と付き合おうとするから、人間関係で苦労するのだと思います。嫌いな人とは距離を取り、好きな仲間とだけつるめばいいのです。人との距離や親密度は、相手によって変えるべきだと思います。
僕は周りの人を大きく『仲間』『他人』『嫌な輩』の3グループに分けています。仲間とは、仕事だけでなく遊びや飲み会でも一緒に楽しむ関係です。バカにされても不快にならず、相談したり頼ったり、頼られたりする、とても親密な関係を築いていている人たち。面倒だと思うこともありますが、それはお互い様です。逆に『嫌な輩』認定した人たちとは目も合わせず、貴重な時間やスキルを奪われないよう、細心の注意を払い、警戒しています。この人たちは他人を利用しようとするので、正直、気持ち悪く、思い出しただけでも気分が悪くなります。そんな輩に僕はからは、助けを求めることも、知恵を借りることもないので、敵のままでいてくれれば良い。
つまり、仲間とは持ちつ持たれつの関係を築き、嫌な輩とは無関係でいるのが、僕の理想です。
社会不適合者である自覚はあります。僕はガキくさいし、小さい人間だと思います。でも、誰とでも一定の距離を取り、気を遣いながら迷惑を掛けないよう生きるのは息苦しいんです。生きていれば誰でも迷惑を掛けてしまうことがある。だからこそ、互いを許し合える仲間を作り、支え合えばいい。「迷惑を掛けるのはお互い様だよね」と笑い合えれば、それだけで幸せだと思います。
この価値観が正義でなくても構いません。僕はこんな仲間を求めています。あなたも自分の価値観をぶちまければ、自然と仲間はできるはずです。
(了)
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