男はなぜ、スカートのひらめきに心を奪われるのか。その理由を、単なる欲望の問題として片づけることはできない。むしろ、それはこの国に長年にわたって培われた美意識の顕れであり、無意識のうちに男の心を揺さぶる日本の伝統文化である。
その証拠に、最近では、この奥ゆかしい「パンチラ」が日本的であると認められ、世界中で愛されているとか、いないとか・・・。

そんなことはないっ!
想像してみてほしい。階段を上る女性の裾が、ほんのわずかに揺れる。その下に垣間見える、かすかな白い光景。あるいは、風にあおられた瞬間のひらりとしたスカートの裾。その一瞬を目撃してしまったとき、男の胸中には、背徳感と同時に、説明のつかぬ昂ぶりが生まれる。これは理屈ではない。だが理屈を交えて語るならば、隠され、偶然目にしたものだからこそ、脳は強く反応するのだ。

美しい・・・
それは、刹那な芸術であり、突如として炸裂する色気と色彩は、まるで心の奥底に眠る感情を揺さぶるかのよう・・・見えたか見えないか、一瞬で視界から消えていくそれは、儚さと美しさが同居し、時間が一瞬止まったかのような感覚に包まれる。

詩的に表現するな!!
逆に考えてみてほしい。もし世の中で「パンイチ(パンツ一枚)ファッション」(注:ここでいうパンツとは『下着』のこと)が流行したとして、街を歩けばそこかしこに女子の桃尻が丸出し――そんな光景に興奮することなどない。

興奮・・・するね・・・

・・・
いや、一瞬は興奮するかもしれない。でも、正直に言えば、男の心は長続きしない。
なぜか。それは「見せつけられるエロ」だからだ。見えて当たり前の状態には、想像の余地がない。そこに妄想が入り込む隙間が存在しないのである。

妄想する余白が必要なのだ
仮に、どんなに見目麗しい娘でも、羞恥をまったく感じず、目の前で堂々と下着姿をさらし、着替えを始めたとしよう。確かにエロスはある。あるにはある。

あるんだ・・・

あるだろ!!
でも、興奮は意外なほど薄い。恥ずかしさを隠そうとする力が失われると、男の妄想の余白は消える。堂々と見せつけられると、こちらの方が、モジモジしてしまう。
スカートのヒラヒラに目を奪われるのは、もしかすると「ラッキーハプニングが起こるかもしれない」という期待が心の奥にあるからかもしれない。偶然の出来事によって、見えないはずの部分が垣間見える。その瞬間こそ、男の心に熱が宿る。

そんな目で見るなっ!!
この感覚は、日本の伝統文化が培ってきた美学にも通じている。能の舞台では、動きは最小限に抑えられ、観客の想像力によって物語が補われる。茶道でも、豪華絢爛ではなく、質素なわびさびの中に潜む静かな気配を味わう。
パンチラの魅力も、すべてをさらけ出すのではなく、一部だけをちらりと見せ、あとは受け手の想像に委ねる構造にある。

高度な芸術・・・
僕が本当に求めているのは「隠されているものが、偶然ちらりと見えてしまう」その瞬間なのである。階段を上る一瞬、風にあおられた裾、落としたスマホを拾う仕草の中――すべてが、決して意図的ではなく、だからこそ物語を生む。
パンチラの魔力は、まさにこの「隠してほしい」という欲望に宿る。見えぬ部分を前に、男は想像力を働かせ、背徳感と快感を同時に味わう。露わにされたものではなく、偶然の一瞬に触れた隙間が、最も豊かな興奮を生むのである。

隠してください!!

言われなくても隠す
どうか誤解しないでほしい。男たちはパンチラを単なる下着の露出として消費しているわけではない。偶然の瞬間に生じる、隠された美と文化的文脈を、心の底で味わい、敬意を抱いているのだ。パンチラは罪ではない。偶然であり、隠されているからこそ美しい。そこに、日本人が長年にわたって育んできた、隠す美学の精神が宿っている。
(了)
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